退職代行で損害賠償は請求される?脅し文句との見分け方

「辞めるなら、損害賠償を請求するからな」。

上司にそう言われた瞬間、頭の中が真っ白になった。あるいは、まだ言われてはいないけれど、辞めると伝えたらきっとそう返される——そう思うだけで、申し込みボタンの上で指が止まる。

先に結論を書く。退職代行を使って辞めたこと、それ自体を理由に損害賠償が認められることは、まずない。そして会社が口にする「損害賠償」のほとんどは、法的な裏づけのない、引き止めのための脅し文句だ。本当に賠償が問題になる稀なケースは存在するが、その線引きははっきりしている。

この記事は、「絶対に大丈夫」と気休めを言うものではない。なぜ会社は損害賠償という言葉を持ち出すのか。本当に危ないのはどんな場合か。そして、その一言を言われたその場で、あなたが絶対にやってはいけないことは何か。条文と判例を根拠に、順番に整理していく。

「損害賠償」の四文字の前で、夜中に固まってしまう

損害賠償。普段の生活ではまず使わない、重たい四文字だ。

この言葉が怖いのは、金額が想像できないからでもある。給料の何ヶ月分なのか、家が一軒買えるくらいなのか、まるで見当がつかない。見当がつかないから、頭は勝手にいちばん最悪の金額を当てはめる。数百万、ことによると数千万。眠れない夜に、根拠のない桁だけが膨らんでいく。

ここで一度、立ち止まってほしい。あなたがいま怖がっているのは、「実際に裁判で負けて何百万円も払わされること」だろうか。それとも、「上司に損害賠償だと凄まれて、その場で何も言い返せなくなる自分」のほうだろうか。

おそらく、後者だ。多くの人にとって、本当の恐怖は判決ではなく、言葉そのものにある。裁判所から書類が届く未来を恐れているのではなく、目の前で大人に脅され、頭が真っ白になって「分かりました」と言ってしまう——その場面を恐れている。だとすれば、対策の向きも変わってくる。確率の話で安心しようとするより、「言われたときにどう動くか」を先に決めておくほうが、ずっと効く。

そもそも、退職しただけで損害賠償は成立するのか

事実から確認する。労働者には退職の自由がある。期間の定めのない雇用契約なら、民法627条1項により、退職を申し入れてから2週間が経てば、会社の許可がなくても契約は終了する。辞めること自体は、権利の行使であって、義務違反ではない(ベンナビ労働問題)。

権利を使っただけで損害が生まれるわけではないから、退職代行を使ったという一点をもって賠償を求められることはない。これは弁護士型・労働組合型・民間型のどのサービスを使っても変わらない(弁護士法人みやび)。

さらに踏み込んでおきたい条文がある。労働基準法16条は「賠償予定の禁止」を定めている。「途中で辞めたら違約金100万円」といった、あらかじめ賠償額を決めておく契約は、それ自体が無効だ。入社時の誓約書に「自己都合退職の場合は損害金を支払う」と書いてあっても、その条項は法的に効力を持たない(ベンナビ労働問題)。

では、損害賠償が成立する余地はまったくないのか。そうではない。会社が賠償を請求して認められるには、民法上、あなたの故意または過失によって現実の損害が生じ、その行為と損害のあいだに因果関係があることを、会社の側が立証しなければならない。ここが肝心なところだ。立証する責任は、訴える会社にある。あなたが「損害を与えていない」と証明する必要はない(トップコート国際法律事務所)。

気づいてほしいのは、損害賠償は「会社が言えば成立するもの」ではない、ということだ。請求すること自体は、誰でも一秒でできる。だが認められるかどうかは、まったく別の話だ。脅し文句として口にするのは簡単でも、それを裁判で通すには、会社は高い壁をいくつも越えなければならない。

本当に賠償が問題になるのは、どんなときか

とはいえ、ゼロではない。実際に損害賠償が問題になりうるケースは、限られているが存在する。代表的なのは次のようなものだ(トップコート国際法律事務所ベリーベスト法律事務所)。

ひとつは、会社の機密情報や顧客リストを持ち出した場合。これは退職そのものではなく、情報の持ち出しが不正競争防止法違反や秘密保持義務違反に問われる。ふたつめは、競業避止が就業規則で明確に定められているのに、それを破って機密を使い、会社に損害を与えた場合。みっつめは、退職の前後に会社の悪評をSNSや口コミサイトに書き込み、信用を傷つけた場合。そしてもうひとつ、繁忙期に何の引き継ぎもせず突然いなくなり、それによって取引が現実に飛んだ、というような場合だ。

並べてみると分かる。どれも「辞めたこと」が原因ではない。情報を盗む、嘘を広める、契約を意図的に壊す——退職に付随する別の行為が問題になっているだけだ。普通に退職代行を使い、静かに辞める人には、ひとつも当てはまらない。

よくある心配に、「引き継ぎをせずに辞めたら、賠償されるのではないか」というものがある。気持ちは分かる。きちんと引き継いで辞めるのが理想だと、誰もが思っているからだ。だが、引き継ぎが多少滞ったくらいで、会社に「現実の損害」が生まれ、しかもその原因があなたの退職だけにある、とまで言い切れることは、まずない。次に見る判例が、そのことをはっきり示している。

ここに、この記事でいちばん持ち帰ってほしい発見がある。あなたが怖がっている「損害賠償」と、法律が想定している「損害賠償」は、別物だということだ。前者は、辞めることへの罰のような、漠然とした恐怖。後者は、盗みや裏切りといった具体的な不法行為への対価。あなたがただ静かに辞めたいだけなら、後者の世界とは交わらない。

裁判になっても「割に合わない」——ケイズ事件が示すもの

抽象論だけでは、不安は消えない。実際に会社が訴えたら、いくら取られるのか。ここで参考になる判例がある。

ケイズインターナショナル事件(東京地裁・平成4年9月30日判決)だ。入社して間もない従業員が、病気を理由に欠勤し、引き継ぎをしないまま退職した。会社は、その従業員のせいで取引先との契約を失い、3,000万円の損害が出たとして賠償を請求した。

結果はどうなったか。裁判所が労働者に支払いを命じた金額は、70万円だった(ベンナビ労働問題)。

3,000万円の請求に対して、70万円。この差が、ほとんどすべてを物語っている。引き継ぎなしの突然の退職という、会社にとってかなり分の悪い辞め方をしても、裁判所は損害の大部分を労働者の責任とは認めなかった。取引が飛んだ原因が本当にその人の退職だけなのか、その因果関係を厳密に立証するのは、それほど難しいということだ。

会社の立場で考えてみてほしい。弁護士費用と時間をかけて訴訟を起こし、何ヶ月も争って、取れるのが数十万円。多くの会社にとって、これは割に合わない。だからこそ、現実には「損害賠償だ」と口で言うところまでで止まり、実際に提訴まで進むケースはごく少ない。脅し文句が脅し文句で終わるのは、会社の側にとっても、本気で裁判をするうまみが薄いからだ。

「請求する」と「訴える」は、まるで別物

ここで、言葉の段階を分けておきたい。多くの人が、「損害賠償を請求する」と「裁判で訴えられる」を、ひとつづきのものとして怖がっている。だが、このあいだには、いくつもの段差がある。

最初の段階は、口頭での「請求するぞ」。これは法的な手続きですらない。ただ、言っただけだ。次の段階が、内容証明郵便。「いつ・誰が・どんな文面を送ったか」を郵便局が証明してくれる書面で、たしかに本気度は一段上がる。ただし、内容証明そのものに、お金を払わせる強制力はない。あくまで「請求しました」という記録にすぎない。そして最後の段階が、裁判所から届く訴状。ここで初めて、法的な手続きが実際に動き出す。

怖いのは、最初の「口で言われた」段階で、最後の「訴えられた」段階をまるごと想像してしまうことだ。現実には、口頭の脅しが訴状にまで育つことは、ここまで見てきたとおり、めったにない。だから、もし会社から何か言われても、それが今どの段階なのかを、まず一度確かめてほしい。口で言われただけなら、手続きは何も始まっていない。内容証明が届いたのなら、無視はせず、弁護士型の代行や専門家に見せて、対応をそのまま預ければいい。段階を見分けられるだけで、漠然とした恐怖は、対処できる一手に変わる。

「辞めたら損害賠償」と言われたら——その場でやってはいけないこと

ここからが、確率論よりも大事な、実務の話になる。

もし面と向かって「辞めるなら損害賠償を請求する」と言われたとき、いちばん危険なのは、相手の言葉が正しいかどうかではない。その場の圧に飲まれて、あなた自身が不利な約束をしてしまうことだ。

想像してみてほしい。狭い会議室に呼ばれ、ドアが閉まる。上司と、ほとんど話したことのない総務の人が並んで座っている。机の上には、もう一枚、紙が伏せて置かれている。その場面で、ひとり冷静さを保てと言われても、難しい。だからこそ、判断は「その場」ではなく「事前」に済ませておく。何を言われても、やることだけは決まっている——その状態を先に作っておくことが、いちばんの守りになる。

先ほどのケイズ事件には、見落とされがちな前段がある。実はこの労働者は、退職の際に会社から迫られ、いったん200万円を支払うと約束させられていた。最終的に裁判所が認めたのは70万円だったが、その場では200万円を約束させられていたのだ。脅された瞬間に交わしてしまう口約束や念書は、後の冷静な法的判断とは別に、あなたを縛りにくる。これは30年以上前の判例だが、「その場で約束させる」という会社の手口は、今も変わっていない。

だから、言われたその場でやってはいけないことを、先に決めておく。第一に、念書や合意書にサインしない。「損害金を支払います」「退職金は放棄します」といった書面は、一度署名すると、それ自体が不利な証拠になる。第二に、その場で金額を認めない。「いくらですか」「払います」と口にしないこと。口頭でも、約束は約束として後を引く。第三に、感情的なやり取りに付き合わない。可能なら、相手の発言を録音しておく。脅しや在職強要にあたる言動は、後であなたを守る証拠に変わる。

そして覚えておきたいのは、立場はむしろ逆転しうる、ということだ。退職の自由を妨げる目的で損害賠償をちらつかせる行為は、労働基準法16条に反するうえ、執拗であれば在職強要として違法と判断されることがある。脅しが度を越せば、不法行為として、今度はあなたが慰謝料を請求できる側に回る可能性すらある(ベリーベスト法律事務所)。リスクを抱えているのは、本当はあなたではなく、脅してきた側のほうなのだ。

引き止めの圧そのものが怖い人は、引き止めが怖くて言い出せない人へも併せて読んでおくと、対面の場面で固まりにくくなる。

それでも揉めそうなら、最初から「交渉できる代行」を選ぶ

ここまで読んでも、「うちの会社は、本気で訴えかねない」と感じる人がいる。その読みは、相手を知っているからこその現実的な判断だ。精神論ではなく、選ぶサービスの種類で備えるべき場面になる。

退職代行には、運営元によって民間企業型・労働組合型・弁護士型の三つがある。損害賠償をちらつかせる相手に対応できるかは、ここで大きく変わる。民間企業型は、退職の意思を「伝える」ところまでが基本で、会社と条件を交渉する権限はない。むしろ交渉まで踏み込むと、非弁行為のリスクが出る。労働組合型は団体交渉権を持ち、有給や退職条件の交渉ができる。そして弁護士型は、法的な代理人として連絡窓口を一本化し、損害賠償を持ち出す相手にも正面から対応できる。三タイプの違いは退職代行の種類と選び方で詳しく整理している。

判断の軸はシンプルだ。すでに「辞めたら損害賠償だ」と言われている、未払いの残業代や退職金がある、パワハラの記録がある——このうち一つでも当てはまるなら、弁護士型を検討する理由になる。弁護士事務所が運営する弁護士法人みやびのような窓口は、法的なやり取りごと預けられる「保険」として働く。逆に、揉める要素がとくに思い当たらないなら、ここまで読んで分かったとおり、過度に身構える必要はない。

自分の会社がどのタイプに当てはまるか迷うなら、状況別の相談窓口・選び方のページから、30秒で自分に合うタイプを絞り込める。損害賠償だけでなく、退職にまつわる怖さ全般を先にほぐしておきたいなら、退職のトラブルが怖くて動けない人へも役に立つ。いきなり契約しなくていい。状況を一行だけ送って、相談で止めることもできる。

まとめ

退職代行を使って静かに辞めること、それ自体で損害賠償が認められることは、まずない。労働基準法16条により「辞めたら違約金」の約束は無効で、賠償が成立するには、会社の側が故意・過失・実損・因果関係を立証しなければならない。ケイズ事件が示すように、たとえ裁判になっても、会社にとっては割に合わないことが多い。

だから、会社が口にする「損害賠償」の多くは、あなたを引き止めるための脅し文句だ。本当に危ないのは、情報の持ち出しや誹謗中傷といった、退職とは別の行為のときだけ。あなたが静かに辞めたいだけなら、その世界とは交わらない。

いちばん大事なのは、言われたその場で念書にサインしないこと、金額を認めないこと、記録を残すこと。そして揉めそうだと分かっているなら、最初から弁護士型を選んでおくこと。それだけで、できることはもう十分にそろっている。

「損害賠償」という四文字に、これ以上あなたの夜を奪わせなくていい。本当に立場が弱いのは、脅した側なのだから。

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